いま マスコミに問われているものーネット時代のジャーナリズムとは?ー
Tweet必ずしもタイトルの内容通りにはなりませんでしたが、何カ所か面白いやりとりがあったイベントだったと思います。
第一部の竹内さんの基調講演も、私にとってはかなりインパクトのあるお話でした。
ビデオニュース・ドットコムで全編を無料放送中です。
プレスクラブ
収録日:06年7月8日(2006年09月07日)
公開シンポジウム
「いま マスコミに問われているものーネット時代のジャーナリズムとは?ー」
(於 日本プレスセンター)
第1部 講演
「ネット時代のジャーナリズム」
講演:竹内謙氏(日本インターネット新聞社代表取締役社長)
第2部 パネルディスカッション
「ネット時代のジャーナリズムとは?」
司会:高成田享氏(朝日新聞社論説委員)
パネリスト:
湯川鶴章氏(時事通信社編集委員)
松澤雄一氏(神奈川新聞社デジタルメディア局長)
金平茂紀氏(TBSテレビ取締役報道局長)
神保哲生氏(「ビデオニュース・ドットコム」代表)
September 8, 2006
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もう、つぶされてもいい、徹底的にやってやる。(笑) from 雑談日記(徒然なるままに、。)
って、今日の表題は最近読んだブログさんのパクリです。誰のブログかは忘れました。
September 8, 2006
コメント
神保さんと違って僕には第1部はもう何回も聞いたことのある話だという印象だったのですが、第2部の半ばから終わりまで、ぐいぐい引き込まれていきました。
特に金平茂紀氏が、一般の人がそんなに双方向性を求めているのか、あらゆる人が自由に発言するような社会が幸福だとは思えない、というような感じのことをおっしゃっていた部分、大変重要な指摘だと思います。
それは例えばオーマイニュースみたいなものや、ここ数年よく耳にする「コミュニティ再生」(カッコつき注意)うんぬんといった、市民性や公共性に関係あるような話なんだけどよく考えてみると実はまったくそうじゃないんじゃないかと思われるようなものに対するアンチテーゼとして、という意味でです。
最後、金平氏がインターネットのほとんどはフラストレーションを吐き出したもの、というようなことを言った後、竹内謙氏が「ちょっと話したくなった」と言ってバリアフリーを実現したお話をされました。
確かにそれはいい話だし、そういう形の市民ジャーナリズムはありかな、と思いました。
しかしよく考えてみると、「バリアフリー化しない店をさらせ!」的な要素はそこにはなかったのか。フラストレーション吐き出し型だったからこそ、うまくいったのではないか。
ちょっと気になりつつ、でもパネルディカッションの映像を一つの映画作品のように見た場合、そんなうっすらと皮肉をはらんだかのような終わり方がエンディングとしては完璧で、思わず拍手を送りたくなってしまいました。
September 9, 2006
金平氏はプロのジャーナリズムの存在理由として公共性ということを言っていたように思いますが、ちょっと違うのではないでしょうか?
私がプロのジャーナリズムから期待するのは、裏づけのとれた信頼できる情報です。今の世の中には、特にインターネット上では、与太話が多すぎます。否、最近では政府ですら与太情報を平気で流します(例えばアメリカ政府)。
そして怖いのは、そういう与太話を大勢の人が信じてしまえば、それは社会を動かす力たりえてしまうということです。そういう社会を招来してはならないと私は思います。
ですから、情報の受け手である私たちの側がより賢明になる必要があるし、またそれと同時に、信頼できる情報が提供され続ける必要があります。プロのジャーナリストとは、まさにそういう信頼できる情報の提供者であるはずであり、またそうでなければならないのではないでしょうか。
September 9, 2006
デーブ・スペクターさんの車が燃えちゃったらしいというニュースが流れてましたが、現場の目撃者としてテレビに出てた人が神保さんに似てて笑。
http://news.tbs.co.jp/asx/news3376641_12.asx
September 10, 2006
ずいぶん昔から隠れ金平ファンをやっていたので少し口出しします。
>特に金平茂紀氏が、一般の人がそんなに双方向性を求めているのか、あらゆる人が自由に発言するような社会が幸福だとは思えない、というような感じのことをおっしゃっていた部分、大変重要な指摘だと思います。(Cheさん)
一般の人がそんなに双方向性を求めていないというのはむしろネガティブな意味だと思います。つまりできあいの「おすすめ」情報を求めていて、情報を自分のニーズに合わせて探しまくったり、取捨選択したり、組み立てなおしたりといったてまひまは惜しみ、すべてのことが「I’m feeling lucky!」でぽんと出てくれば、まさしくラッキーだと確信している人たちが大多数なのではないかと。それはまさしく個の類型化、パターン化、埋没化へとつながるものです。一方的受身から本来の意味での「双方向」に向かうということは、別にパソコンの端末から検索キーワードを打ち込むことや、オンデマンドのサービスを利用するということではないと思います。それはテレビのリモコンのチャンネルを変えることや、雑誌のページをめくることとそんなにかわりありません。本来、受け手から送り手に転換するということは時間的にも労力的にも大変なエネルギーを必要とするものです。それには伝えることへのある種の使命感のようなものが必要かもしれません。そしてその使命感をひとりひとりの個が持っているような社会を市民社会と呼ぶのだと思います。
それからバリアフリーの件の「フラストレーション吐き出し型だったからこそ、うまくいったのではないか。」という件ですが、そもそも市民が権力機構に対抗して現状を変えていくという市民運動の歴史において、その原動力となったのは、現状に対する不満=「フラストレーション」です。日本での学生運動、左翼運動がある時期を境に急激に沈静化してしまったのはまさに高度経済成長でイデオロギーではなく物質でフラストレーションが解消されてしまったからであり、それに続くオイルショックで、自分たちを幸福にしているのは物質なのだと心に刻み付けてしまった人々はもはや再びこぶしを振り上げる力も失い去勢されてしまった……あっ、脱線してしまった。
>金平氏はプロのジャーナリズムの存在理由として公共性ということを言っていたように思いますが、ちょっと違うのではないでしょうか?
>私がプロのジャーナリズムから期待するのは、裏づけのとれた信頼できる情報です(vox_populi さん)
「信頼できる」と判断する主体は誰でしょうか?
メディアの側が「私たちの情報は信頼できます」と言えば私たちは信頼してよいのでしょうか。「朝日」とか「TBS」という看板がついていればそれは裏づけのとれた信頼できる情報であり、例えば「ある一市民の生の声」は裏づけのとれた信頼できる情報ではないから聞くに値しないと考えるなら、わらわれは権威付けされた情報だけに踊らされる情報奴隷になってしまうでしょう。
プロのジャーナリストがプロたる所以は膨大な情報の取捨選択能力、編集能力であり、その基準になるものが視聴率や売り上げ部数ではなく、公共性であるということをTBSの報道局長の金平氏が言ってくれたということは、死に体寸前のTBSを含む日本のメディアが首の皮一枚でなんとかつながっているのかなと感慨深く思いました(news23の新構成、あれはないんじゃないかなあ…)。
公共性の担保の重要性と需要の問題は、例えば公文書の公開などがよい例です。膨大な公文書の山を実際読んで見たいと思う人はほとんどいないでしょう。しかし、それが公開されているということで、権力は不正を隠匿することができなくなり、そもそも不正を働かない方向にインセンティブが働きます。そしてひとたび何かが起きたときには公開されている文書を徹底的に調べ上げることで原因や責任を追及できる可能性があります。
マスメディアは一般市民がアクセスできない公共性の高い情報を大量に日々入手しています。この情報を視聴率や売り上げがとれないからといって、イチローのヒットや容疑者のご近所の人のコメント、タレントのリアクションに差し替えてばかりいたら、結果として公共性の高い情報が隠蔽されてしまったことと同じになってしまいます。それを「ニーズが少ないから」とかたずけてもよいのでしょうか?それに対抗しうるのは「公共性」であり、それはビジネスマンではなくジャーナリストの仕事なのだと思います。
二部没頭の高成田氏のプレゼンには呆れました。高校生の夏休みのレポートにしてはよくできているかもしれないけど、これが朝日の論説委員とは…。神保さんとのディベートを聞いていて、うーん根が深いなあ。大企業組織の中で出世していくタイプの人がワンパターン化していてそれがマスコミも例外ではないのだなと改めて思いました。
September 13, 2006
fotosintesiさんへ
「信頼できる」と判断する主体は誰でしょうか?
とのお尋ねですが、判断する主体はもちろん、私でありあなたであり、つまり情報の受け手です。
一々考えるのが面倒くさい場合には「大メディアが流している情報だから」という判断省略をやることも、なくはないでしょうが、しかし多くの場合には、我々は多かれ少なかれ批判的に情報を受け取っているのではないでしょうか? 例えば私の場合は、極端かもしれませんが、イギリスでのテロ計画の話がどこまで本当なのか今もって疑っています。fotosintesiさんも、程度差はあれ、同様なのではないですか?
そのような私からすれば、望ましいのは、例えばメディアが政治家の悪について情報を暴露して、当の政治家との間で法廷闘争が起こって、その結果メディア側が完全に勝利するといったことでしょうか。こういうことが続けば、現在のところ地に堕ちている(とまで言えるかどうかはわかりませんが)メディアの信頼度も高くなるのではないでしょうか。
次に、公共性をジャーナリストが自らの究極の基準にしているという話については、私は、最適な言葉は「公共性」ではないだろうと思っています。最適なのは、青臭いと思われるかもしれませんが、「社会的正義」だというのが私の考えです。言うまでもなく、何が正義かについての考えは人によって千差万別であるという前提の上でこう言っているつもりです。残念ながら、今の大メディアのジャーナリストは、(例えば高給を食んでいるということが影響して)正義に対する感覚を相当欠いているんじゃないんでしょうか。何回か前の丸激のゲストだった鎌田氏のような本物のジャーナリストのことが想起されます。
その鎌田氏と比較すると、金平氏からは、ジャーナリスト貴族の匂いが感じられました。氏があえてそういう匂いが感じられるようにふるまっている可能性を、私は否定しませんが。
September 13, 2006
fotosintesiさん、コメントありがとうございました。
fotosintesiさんが書かれた「一般の人が~呼ぶのだと思います。」という部分、何度も読みましたけれども、意味はだいたい理解したつもりなんですが、なぜそれが僕の前のコメントに向けられているのかがよくわかりません。
もし彼がそういう意見を持っているとしたならば、ディスカッション中、特に神奈川新聞の松澤氏が言ったようなことに対して終始批判的なスタンスをとり続けていたのはなぜなのでしょうか?
僕が放送を見ていたとき、最初と最後では金平氏の印象がだいぶ変化したのを覚えています。
fotosintesiさんと違って、僕は金平氏の意見を聞くのは初めてでした。放送の第二部冒頭からしばらくの間、僕の彼への印象は「何だこの人。変なこと言う人だな」という感じでした。
中盤以降だんだんと、どうやら頭はよさそうな人らしいということがわかってきて、「この人はもしかしたら、内容が複雑で説明しにくい話を伝えようとして苦労しているのかもしれない」と思うようになりました。
僕には彼がfotosintesiさんが書かれたような、他の参加者との衝突も少なく、説明するのも簡単なことを伝えるのに苦労するような人には見えませんでした。
金平さんが言っているのはおそらく、「どうしてジャーナリストなどという職業が存在できるのかもう1回考えてみろ」ということじゃないでしょうか。
というのは、いちいち書くまでもありませんが、すべての市民が情報発信のメディアを持ったからといって、すべての市民がジャーナリストになるなどといったことはありえない。それは他の仕事をしていれば時間の制約もあるし、取材したり記事を書いたりする技術の問題もあるし、扱うテーマの背景をよく知っていなければならないし、どこにいけば欲しい情報が得られそうなのかという知識や勘も必要だし、そういうことを続けていく気力や情熱も持ち続けていなければならないからですね。
だからこそ、そこにジャーナリストという職業が成り立ちうるし、逆に言えば僕たちは、そういう能力や知識や情熱を持った人たちに付託して、プロのジャーナリストとして仕事をしてもらっていることになります。
(ちなみにvox_populiさんが書かれたことと絡めて言えば、ジャーナリストに限らずプロフェッショナル/プロフェッショナリズムというのは「社会にとって必要な任務を社会から付託されている人/という自覚」ということになるんだろうと思います。)
で、fotosintesiさんは
> 伝えることへのある種の使命感のようなものが必要かもしれません。そしてその使命感をひとりひとりの個が持っているような社会を市民社会と呼ぶのだと思います。
とおっしゃっていて、どういう意味を込めてそうおっしゃったのかよくつかめないんですけれども、僕が思うのは、「すべての市民がジャーナリスト」みたいなことを言ってみたり、結局はマスコミや他の誰かの受け売りのような意見でやれ賛成だ、やれ反対だなんて井戸端会議をしたり、場合によっては扇動されてみたり、というのはやっぱりばかげている。
「自分は賛成か、反対か」みたいな問題設定で、ジャーナリスト面や一家言ある有識者面をしてああだこうだとやるのではなくて、例えば靖国問題ならば「ジャーナリストA氏は、○○を論拠として靖国参拝に賛成だと言っている。ジャーナリストB氏は、△△を論拠として靖国参拝に反対だと言っている。どちらがよりもっともらしいだろうか。」というような形の問題設定で議論し、あるいはジャーナリストを評価し、その上で投票・購買・不買(時にはデモ・スト・暴動にいたるまで?)といった行動に反映させていくというのが、市民としてのまっとうな道なのではないか。
そんなふうに僕は思うし、金平さんがディスカッション中に言おうとしていたこともひょっとしたらこんな感じのことなんじゃないかと思ったりもしたのですが、どうでしょうか?
後半のフラストレーション云々の話は、言われてみればそのとおりかもしれません。
September 14, 2006
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