サイゾー7月号『メディア駆け込み寺』
サイゾー7月号(6月発売分)『メデイア駆け込み寺』では、JR西日本の会見における報道陣の恫喝的な取材姿勢に対するコメントをいくつか紹介させていただきました。
来月は多分BSE問題やアメリカ産牛肉の輸入再開問題がそろそろ大きく取り上げられ始めるような気がしますので、そのあたりのメディア報道をウオッチして、コメントを寄せていただけると嬉しいです。
政治は郵政国会が延々と続くのでしょうから、あまり面白い話にはならないかもしれませんが、政治報道でも「これはちょっと?」と首を捻りたくなるような記事やリポートがあれば、是非ご紹介下さい。
あとは、多少遊びになりますが、メディア上に登場した可笑しいミス(誤植や言い間違いなど)やハプニングなども、面白いものがあれば教えてください。
事件、事故報道はニュースの基本なので、事件や事故の報道の仕方をみれば、その報道機関やそこの記者の能力や姿勢、体質がかなりはっきりとわかるものです。だいたい、事件、事故発生から数日後にはっきりと見えてくる場合が多いのですが、このあたりもウオッチしていて何か気がついたことがあれば、ぜひお寄せ下さい。
もちろん他のテーマでもOKです。
多くのメディアウオッチャーの皆さんからの駆け込みをお待ちしています。
June 3, 2005
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陳腐な「物語」。。。 from つきかげの消息記
プロジェクトX「事実と違う」 大阪の高校が申し入れ(asagi.com 記事)
プロジェクトX 高校にNHKが謝罪 「番組自体は続ける」(asagi.com...
June 6, 2005
ブッシュにご機嫌をとるアメリカのニュース番組 from マサガタの時事放談
米国がイラン攻撃を開始する???
今朝、NHKの衛星でアメリカのABCのニュース番組をたまたまテレビで見た。
面白い報道をやっていた。ブッシュ大統領...
June 30, 2005
乱と役、城と柵(2) from 日本の歴史@これがキーワード
役(えき)と乱について簡単に説明します。文永の役(ぶんえいのえき)、弘安の役(こうあんのえき)これは蒙古との対外戦争です。いわゆる元寇のことで、一度目を文...
June 17, 2007
コメント
本当に土井さんと宮台さんと神保さんの対談はいろんな人に見てほしいですよね。まさにオンデマンドの力、ここにありき、という感じでした。
メディアのちょっとしたミスと言えば、この前の上位納税者のやつで、TBSが国会議員の額を一桁多く報道していたのにはさすがに驚きました。翌日訂正謝罪がありましたが…。
June 3, 2005
先日、NHKの人気番組『プロジェクトX』で、大阪府立淀川工業高校合唱部が全国で金賞を取るまでの逸話を取り上げた回について、学校側よりの抗議を受け、NHKが謝罪したことがありました。
私自身はこの放送を見てないので、一連の経緯については、報じられた事以上には知り得ず、また、いまさら敢えてコメントすることも有りませんが、今回改めて、NHKのサイトに掲載されている『プロジェクトX』の番組紹介「プロジェクトXとは」を読んで、少しばかり考えてしまいました。
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「プロジェクトX」は、熱い情熱を抱き、使命感に燃えて、戦後の画期的な事業を実現させてきた「無名の日本人」を主人公とする「組織と群像の知られざる物語」である。(NHKサイトより引用)
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NHKサイト内での分類上、この番組は「ドキュメンタリー/教養」と位置づけられているようですが、はたして”物語”は”ドキュメンタリー”たり得るのでしょうか?
もちろん、人が作るものである以上、完全に「客観的なドキュメンタリー」など存在し得ないだろう、とは思います。
とはいえ、イメージ映像や情感を込めた朗読、BGM等を使い、意図的に、”困難を乗り越えて成功したプロジェクト”という着地点に向かって「物語(ドラマ)化」された番組が、「ドキュメンタリー」番組として放映されている(有る程度、「事実」を伝える番組、として放送されている)ことについては、どうしても違和感を感じます。
以前、政治家の「愛読書」について書かれたコラムで、現在の政治家の多くが歴史小説ファンなのだが、岸、佐藤、中曽根らの世代までは少なくとも歴史小説ではなく、歴史の「生証言」を読んでいた、という話を読んだ覚えがあります。
そのコラムで、現在の政治家達に感じた違和感と、「物語」を「ドキュメンタリー」とをあまり区別していないNHKに感じる違和感とは、同質のものではないかと感じます。
June 5, 2005
>Sa-Qさん
面白く読ませてもらいました。僕の意見を少し。おっしゃる通り、客観的なドキュメンタリーというのは存在しないと思います。というのも映像の「編集」作業自体が物語化だからです。僕はある程度の数ドキュメンタリー映画を見てきていますが、基本的に物語とドキュメンタリーの違いはないと、思っています。僕達が他者について語るときって、それらを「物語」としてしか語れないと思うのです。だから、ドキュメンタリーというのは、「取材」という、何かを物語る時の一つの手法の名称でしかないと思います。物語なんですドキュメンタリーも。嘘がないもの、という意味では全くないと思います。
NHKの場合彼らが無名の人々ついて語りたいと思った時に、とある架空の登場人物を作り上げてドラマをを製作することもできたでしょうが、彼等はあの形式を選び、それで自分達のメッセージを伝えようとしている。そしてそれは成功しているように僕は思うんです。あの形式はただの手段でしかない気がします。ドラマでもドキュメンタリーでも、僕の評価基準は制作者の意志とメッセージがはっきりと表明されているか否か、です。それらが過去の現実を正確に伝えているか否かではないです。ドキュメンタリーだってドラマと同じくらい嘘なんです。過去になってしまった瞬間、編集を経た瞬間に既に。
という訳で、僕はNHKがプロジェクトXにドキュメンタリーの名を冠してしていることは全然OKです。取材、という手法をとっているので、ドラマと言うこともできないしとりあえずドキュメンタリーと名付けるしかないよな、という程度のものではないでしょうか、制作者たちからしたら。彼らのプライオリティーはあくまで「組織と群像の知られざる物語」を描き出すこと、だったと思います。
後は見る側のリテラシーだけです。あの番組は確かに音使いなんかも劇的ですが普通に見ていて、ああ感動的なシーンだけど実際の当事者たちはもっと地味で、成功した後も毎日家に帰ってサバの刺身つまみながらプロ野球中継を見ているんだろうな〜、みたいな想像はするはずです。問題が起きるとしたらこの種の番組をハリウッド映画を見るように疑いなく享受する人々です。素朴に虚構に耽溺?して満足してテレビのスイッチを切り、いざ嘘があった知ると今度は烈火のごとく怒りだす。でもあそこに映されている人たちは少なくともハリウッド映画の登場人物とは違うわけです。怒る前に、見ている時に画面に映らなかったもの、画面に映されてる人々の別の人生に想像力を働かせなかったのか?と僕なんかは問いかけたくなります。ドキュメンタリーの嘘に過剰に反応する人たちというのは、ドキュメンタリーに嘘はないという幻想を素朴に信じる人々で、メディアの報道に嘘はないという幻想を素朴に信じる人々とどこかで重なってくるような気がします。
少し観念的な話になってしまったかもしれません。僕は映像を勉強しているのでこういう考え方がある意味普通なのですが、一般にはドキュメンタリーは(ある程度)嘘のない客観性をベースにしたもの、という認識が共有されているのかもしれません。ですからSa-Qさんの、ああいう「物語(ドラマ)化」された番組が、「ドキュメンタリー」の名を冠して放映されていることについて違和感を憶える、という疑問については、ドキュメンタリーという単語自体が単に取材・証言を元にした何らかの映像作品、という「形式」を意味するものに過ぎない、という視点を提起してみたいと思います。
確かに世間の一般の共通認識からは少しずれているのかもしれませんが、その意味でプロジェクトXがドキュメンタリーの名を冠していることに僕は違和感はありませんし、純正なドキュメンタリー作品だと僕は思います。このような「ドキュメンタリー」観が世間に一般化される可能性についてもみなさんに提起してみたいと思います。
長くなりましたが、それでは
June 6, 2005
>犀さん
初めまして。レス、有り難うございます。
映像の「編集」作業自体が物語化、というのは、全く仰る通りかと思います。
先のコメントでは、少々「ナイーブ」なことを書きましたが、”単に取材・証言を元にした何らかの映像作品”をドキュメンタリーと呼ぶ、犀さんの考え方もよく分かる気がします。
ただ、犀さんも仰ってるとおり、これは「見る側のリテラシー」が前提とされる、ようにも感じます。
私の身近には技術系の仕事に就く者が多く居り、また自分自身、(ドキュメンタリーになるような「大きな」仕事では、全然有りませんが(笑))チョッとしたプロジェクトの末席を汚したりもします。
そういう目で見ますと、もちろん、『プロジェクトX』でも大いに感銘を受けた回も有りますが、なんというか「ホントに、そんな安物のRPGみたいな話だったの?」という感想を抱くこともあります。
私の疑問点の出発は、よく考えてみれば、この「安物のRPG感」がどこから来るのか? ということだったようです。
おそらく、最大の理由は「そうそう、感動的なプロジェクトが沢山ある訳ではない」にも関わらず、番組を継続させなければならない点にあるかもしれません。
しかし、これは想像でしかありませが、制作スタッフの内に、謂わば「成功者」に焦点を合わせて「物語」ることを続けるうちに、ある種の「形式化」が起きている、言い換えれば、ドキュメンタリー上の「ネタ」のはずが、「ペタ」に堕した面があるのではないか、という疑問を抱いています。
June 6, 2005
>Sa-Qさん
初めまして、Sa-Qさん。返信ありがとうございます。
さっそくですが、Sa-Qさんのおっしゃる「安物のRPG感」、すごくよく分かります。少しだけ補足したいですが、僕が先のコメントでNHKを支持したのは彼らがプロジェクトXをドキュメンタリーと名乗ること、その一点だけで内容自体は実は僕もあまり好きではありません。
ドキュメンタリーを撮ったりするとき、完成した作品は、多くはとても当事者に見せられる代物ではないことが多いです。もし見せたら結構な割合で彼らの怒りを買うことになりますが、でもいくら当事者の意図と離れていても、「表現」をするのは彼らではなくてあくまで作り手側で、だからその分作り手はおおきな責任を彼らに追うわけです。ドキュメンタリーは嘘だと言いましたが、その分、当事者への事前の説明責任とか了解事項の確認なんかは本当に大事だと思います。すごく気を使う問題です。だから今回のNHKのミスはかなり酷いと思います。ドキュメンタリーは嘘だと言いましたが、あのレベルの話を擁護しているわけでは全然ないです。一応補足しておきます。
それで、前回のコメントでは長くなりすぎて書けなかったのですが、Sa-Qさんの政治家の愛読書の話にすごく興味があります。安物のRPGみたい、という話とも繋がると思うんですが、確かに今の政治家を見ていると自分を何かの物語の主人公のように思い込んでいるような印象を受けることがあります。僕の記憶では5年前の「加藤の乱」くらいからその感じが出て来ているかなと、言う気がするんですが(名前からして)。みなさんの意見を聞いてみたいです。
僕は今後の長い日本の政治の流れというか傾向透けて見える気がするのですが、どうなんでしょうか。
June 7, 2005
プロジェクトXがドキュメンタリーと呼べるかどうかはについては、私は素人なので何もいえませんが、私の個人的感想としては、非常にクサい番組だと思っています。
「感動」とは、簡単に言えば「涙」です。うまくできていると思うのは、物語が盛り上がったところで、スタジオに生き証人の登場となるという趣向。そのときまでに視聴者は、感動のストーリーを把握し、主役脇役を見覚えているので、老いてはいるが確かに「あの人だ」と見分けられる現物が登場するだけで、涙腺を刺激されます。聞き役のキャスター男女もすでに目頭熱く、その巧みな誘導に乗って、生き証人たちも感情が高ぶり、聞くも涙、語るも涙、見るのも涙のカタルシス。。。これが感動でなくてなんであろうか、、、涙好きの日本人にはウケるわけだな。
個人的には、NHKアーカイブスでやってるような、大昔の映像の方が断然質が高いと思いますヨ。
June 11, 2005
タク庵さん
コメントありがとうございます。神保です。
プロジェクトXについては、同業者の立場から端的に言うと、とても安直な、つまりチープな制作手法ということになります。
早い話が、本来はさまざまなプレーヤーが複雑に交錯するはずの話を、全てチープな感動物語に仕立て上げてしまっているだけなわけです。そのような綺麗事化が許されるのであれば、この仕事はとても楽な、でも恐らくそれほど面白みのない仕事になってしまいます。
本来であればそんな安っぽい感動物語に人は感動しないはずなのですが、タク庵さんご指摘のように、この番組ではその感動物語の当事者、それも主人公がよく計算されたタイミングでスタジオに現れ、生の声で喋り始める。その時のスタジオゲストの表情への寄りすぎた画も私などから見るとかなり「行き過ぎ感」がありますが、そのスタジオ演出と再現VTRのドラマタイゼーションで視聴者を引き込むという手法ですね。
ただ、少しリテラシーのある方なら、早晩気づくはずなんです。スタジオに出てくる人も、VTRに登場する人も、いずれもその物語を単純な感動物語にしてもらっても何も困らない人しか出てきていないことに。困らないばかりか、最近は多くの場合は企業の話だったりするので、恰好の宣伝になるため、そういう話にしてもらえることで大きな利益を得る人ばかりのはずです。
しかし、これも少し考えてみれば当然予想できることですが、実際に起きたことはそんなに単純ではないのだから、無理矢理その一部を主人公に仕立て上げ、いわばフィクションを構成することによって、その中に登場しない当事者にとっては不公正な扱いを受けたと感じる人や面白くないと感じる人が出てくることとは避けられない
。これも当然予想できることです。
これまでプロジェクトXが、関係者から抗議を受けているという話は少なからず耳にしていますが、私が想像するに、そのほとんどは、番組で感動物語の主人公として持ち上げたグループからのものではなく、本来一定の貢献をしていながら番組では無視されたり、相応の扱いを受けなかった人たちの中に、自分たちの不公正な扱いや事実関係の不正確性など抗議されているのではないかと思います。
早い話が、相手を持ち上げている限り、仮にその話が明らかに作り話に近いものになっていても、その相手からは文句は言われないだろうが、この番組が実際に起きた現実の話を題材にしているが故に、番組の中で持ち上げてもらえなかった人の立場が事実より相対的に不利になっていたり、その中に事実関係の不正確性を容認できないと感じる人が出てしまう、ということなのではないかと思います。
でも、今やあの番組が「親が子に見せたいテレビ番組」のナンバー1なんでしょう。どうしたもんでしょうねえ。
June 11, 2005
今回のプロジェクトXの件でPTAや親は恥をかいたのではないでしょうか。いかに(母)親が自分のことしか考えていないかということが分かりました。見せたい番組上位も見せたくない番組上位も子供には見せたくないが自分(親)としては見たい番組じゃあないですか。去年だったか、クレヨンしんちゃんの映画に感動していたのは誰でしたっけ?見せたい番組10位にトリビアの泉が入っていることにも笑えます。親が子供に見せたくない(見せたい)本(雑誌)ランキングなどもやってもらいたいですね。
June 11, 2005
神保さん、コメントありがとうございます。
思えば、チープなのはこの番組に限らず、「そのとき歴史が動いた」なんかもそうですね。こちらは「涙」だけではない分、「X」よりは好感もてるのですが、何がチープかというと、なんというか専門用語は知りませんが、映像の作り方です。
「その知らせに、板垣は愕然とした」
というナレーションがあるとすると、それにあわせて板垣役の役者がいかにも愕然のフリを演じる。「怒った信長は、光秀を足蹴にし」というと、それにあわせて画面の信長も光秀を足蹴にしており、「必死に許しを請う光秀」にあわせて画面の光秀も必死に手をあわせている(実際に板垣や信長の番組でそうだったということでなく、例えばのことです)。なんというか、即物的というか、子供の絵本でも、ここまで絵と文をあわせるか?という感じ。さらに、少しでも込み入った内容になると、ナレーションと同じことがデカい字幕で画面に出て、音声と絵と字と総動員で絶叫しておるわけです。
プロジェクトXも、「ドキュメンタリー」部の作りは基本的に同じで、おそらくは同じ思想のもとで作られているのでしょう。日本の番組はどうしてこんなになっちゃったんでしょうね。
私個人的には、やはり視聴率ではないかと思います。絶えず目と耳を釘付けにして、情報を次々流し込んで、考える隙をあたえない。ワンコソバみたいなもんです。味なんかどうでもいいんですね。喰ってさえくれりゃ。たまたまチャンネルを合わせた人にも、瞬間で内容を理解できるようにして捕捉する効果もねらっているのでしょう。
反面、昔はよくあった長回し(というんですか?)のような手法、農家の婆さんが黙々と作業している、その皺だらけの手だけずっとを映すとか、そういった味のある構成が失われてしまったように思います。
June 12, 2005
NHKのことをボロクソに書きましたが、その直後、素晴らしい番組を見ました。6/12深夜にやっていた、「エリックとエリクソン- ハイチ・ストリートチルドレンの10年」がそれです。今回再放送だったようですが、非常に感銘を受けました。こういうものを作れる人たちがいるんですね。こういう番組を作れるNHKは尊敬します。
こういうものを見ると、「プロジェクトX」のようなクサい番組の方がウケるのだと、誰かが決めてしまっているのではないかと思えてきます。視聴者が本当に求めているものについての勘違いが、経営陣に根強くあるのではないでしょうか。もしそうでないなら、それは視聴者側の問題ということになるかもしれません。。。
June 15, 2005
カンボジアの国際スクールでの人質事件。毎度のことですが、日本の報道は、「邦人の子供は無事」というところに焦点があたっているようです。自国人のことを特別に扱うのは当然ではないか、という空気がいまだ強いのでしょうが、どうでしょうか? 試しにNew York Timesを見てみたら、Child Is Killed in Hostage Standoff at Cambodian School という見出し。http://www.nytimes.com/aponline/international/AP-Cambodia-Hostages.html
アメリカの子供も含まれていたということは、長い記事の最後になって、国籍の列挙のなかにあるだけでした。
韓国の中央日報の日本語版
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=64635&servcode=400§code=400
これも、日本での「邦人無事」とは微妙に違うものがあります。殺されたのはフランス系カナダ人の子供ということですが、フランスのle mondeを見ると、殺された子供以外の子供は国籍すら載っていませんでした。
http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3216,36-662597@51-639611,0.html
日本が常任理事国になれない(個人的にはなってほしくもないのですが)背景に、このような「邦人」感覚があると感じます。
もうひとつ、今日の毎日朝刊に、オウム真理教の幹部が派遣業法違反かなにかで逮捕される予定であるという記事がありました。逮捕されることの予定記事というのもおかしなものですが、私がひっかかるのは、「オウム真理教(アーレフに改称)」という呼び方です。改称したのがわかってるなら、「アーレフ」と書けばいいと思うのですが、なぜオウムだけは、こういう書き方をするのでしょうか。
個人的には、メディアは必ずしも、個人や団体の自称にこだわる必要はないと思ってます。「ハローワーク」と呼ばずに「職安」といい、「看護師」といわずに「看護婦」にこだわるメディアがあってもいいと思います。日本のメディアは、常日頃このような個人や団体の呼称には、官僚的といえるほど敏感なくせに、オウムだけはいまだに「アーレフ」と呼ばない。これは端的に差別ではないかと思う次第です。
June 16, 2005
>タク庵さんへ:邦人情報について
たしかに事件に関して報道するならば、邦人が無事かどうかなどの情報は比較的重要性が低いと思います。
しかし海外での事故や事件では現地で暮らしている親族や知人の安否を心配する人が日本国内にいることも考えなければならないのではないでしょうか?「邦人は含まれておりません。」という一言で現地に親族・知人を持つ人たちの不安が解消されるという面があるのなら、邦人情報は重要な情報といえると思います。
事件の報道と安否情報の提供というバランスが大切だと思いますが、確かに日本の放送は邦人情報を大きく取り扱いすぎている面はあると思います。その理由はメディアも視聴者も海外での事件そのものにもともと関心が薄いからではないでしょうか?イラクやネパール、スーダンほか海外で起きているさまざまな事件やテロ・紛争に関して日本のメディアはほとんど取り上げておらず、それを詳しく知ろうとする視聴者も少ない。それが海外での事件・事故報道のときの邦人情報の多さにつながるのだと思います。
たしかにタク庵さんのおっしゃるように邦人意識が問題なんでしょうね。日本という巨大なムラを解体しなければ直らないんでしょうが、最近バックラッシュが激しいのでいつのことになるやら・・・。
June 17, 2005
caocaoさん、コメントありがとうございます。
>「海外での事件そのものにもともと関心が薄いからではないでしょうか?」
同感です。津波で数万人死んでいるときに、数百人の「邦人」安否に報道のウェイトの大半が占められてしまうというのは、国際的視点で報じるべきものが、「国内化」されてしまうためだと思います。記者の中には視野の広い人もいるのだろうと思いますが、日本マスコミ界に充満する強迫的な「国内化」圧力に抗えないのではないでしょうか?
日本の親族や知人に安否情報を提供するという要素についてはゼロではないと思いますが、実際どうなんでしょうか? 本当に連絡が必要な人、すなわち近しい親族・関係者などには、ニュースで報道された時点ではすでに外務省などから連絡が行っていることが多いように見受けられます。最初の報道時にすでに家族宅のまわりに記者が群がっているとか。。。他方、直接連絡が行かないレベルの親しさ(単なる知人とか同僚とか)の人については、そのような関係の人にまで公共の電波で個人の安否情報を提供する必要があるのだろうかと考えます。
海外に限らず、国内の交通事故や火事でも、個人名が容赦なく出ますよね。「個人情報保護法」なるものが施行され、警察から交通事故や火事の被害者の情報などが流出すれば問題になりそうなご時世に、ニュースではあいかわらず、住所氏名年齢職業まで全国公開されてるというのも奇妙です。
June 18, 2005
両親を殺害した容疑で逮捕された15才の少年。毎度のことですが、ろくに捜査も進まぬうちから、「心の闇」にせまるマスコミ。。。
最低限これだけはやめろといいたいのは、「卒業文集」の作文公開です。卒業文集は個人の出版物ではないでしょうが、文章の著作権は各個人にあるはずであり、したがって、その内容を公開するには、本人や親族などの了解が必要なはずと考えます。
犯罪者の著作権は保護されない、などという法律はありません。ましていまだ被疑者の段階、しかも少年である者の、事件と無関係な私的な文章を、いったいマスコミは誰の許可を得て、何の権限があって公開できるのでしょうか?
被疑者やその家族は、自らの権利を主張するのに非常に弱い立場にある。一方で、日本のマスコミは、自社の記事の引用には、著作権をふりかざして非常にうるさいくせに、弱い立場の個人の権利にはまったく鈍感。というより、知ってて無視。
法律論もさることながら、報道するネタに事欠いて、他人の小学生のときの作文なぞ引っ張りだしてくることに、恥ずかしさを感じないのでしょうか? ま、感じないからやっとるのでしょうが。。。
June 24, 2005
>タク庵さん
ほんとそうですよね。
まあ、加害者の人権についておおっぴらに何か言えば、またいっせいに叩かれるのでしょうが。。。わたし自身、そういうこと言うたびにさんざん批判されてきました・・・。
June 25, 2005
ykさん、コメントありがとうございます。
「被害者の人権」「加害者の人権」というように対立的にとらえる見方自体が、歪んでいますよね。両者は本来対立的なものではなく、人権状況が良い国は、犯罪者の処遇も、被害者の救済制度も共に進んでいるはずです。日本はそのいずれもが悪い。被害者としは、当然ながらその不満を「加害者は優遇されている」という形で噴出させざるを得ない。犯罪被害者の公的補償を一向に推進しない政府は、そのような被害者の恨みをむしろ利用しているように思います。
マスコミはといえば、一方では「過熱取材」とやらで加害者・被害者の人権を侵害しつつ、報道においては被害者の恨みや報復感情を垂れ流しにすることで、被害者に媚びているように私には思えます。昨今の「厳罰化」の風潮なども、多分にマスコミに責任があると思います。この機を逃すなということで、国民を一気に死刑判決の当事者に巻き込んでしまおうというのが、かの裁判員制度の狙いだと私は考えておるのですが、、、
June 26, 2005
まれに見る悪法「共謀罪」が審議入りしたが、人権擁護法案と同様に大手マスコミはあまり法案の中身について報じていない。
共謀罪は近代社会の「どんなに悪いことを考えていても、それを実行するまでは罪に問えない」という大前提を壊し、個人の内面に基づいて未だ実行されていない犯罪を取り締まることを可能にするもの。日本の刑法では唯一例外として殺人準備罪があり、実行されていない犯罪を検挙できるが、今回の法案ではほとんど全ての刑法上の罪に共謀罪が付け加えられることになっている。いくらでも濫用できる危険な法律だ。
またいつものように与党は「国際的なテロ組織を取り締まる」といった誰もが反対できなそうな大義名分を掲げて法案を通そうとしている。
この法案の危険性を国民に知らせないんだったら何のためのマスコミなのか分からない。若貴問題に時間や紙面を割くんだったら、半分でいいからこちらに回してほしい。
June 26, 2005
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